城下町金沢
  • 城下町金沢の文化遺産群と文化的景観
  • 「城下町金沢」提案のコンセプト
  • 提案した資産の内容

「城下町金沢」提案のコンセプト

 金沢は、城郭、街路、寺院群、用水網など、城下町にとって重要な文化遺産群が良好に残り、当時の都市計画の考え方がよく分かる。加えて、これらの遺産が伝統文化・技術と一体になり、他の城下町に類を見ない都市の文化的景観を形成している。このことから、金沢は江戸時代の城下町を代表する都市遺産として、顕著な普遍的価値を持っている。
近世城下町の普遍的な価値
 日本は、16世紀末から17世紀初頭にかけ、戦乱の世から天下統一へと大きく変化した。この頃、諸大名により200を超す城下町が全国一斉に建設されたことは、世界にも例がない。しかも、城下町は武家権力による日本を代表する独自の都市プランである。

城下町金沢の構造

西田家庭園玉泉園
西田家庭園玉泉園

 天文15(1546)年、金沢御堂と呼ばれる寺院が建立され、周辺には寺内町ができ、都市金沢の原形へと発展した。
 天正11(1583)年、前田利家が金沢城へ入城してから、以後明治まで加賀・越中・能登3カ国、約120万石を領有した江戸時代最大の大名である前田家の政治・経済・文化の中心としての城下町として約290年間繁栄したことから、日本を代表する近世城下町といえる。
 慶長4(1599)年に2代利長は内惣構を、慶長15年(1610)には3代利常が外惣構をつくる。その結果、金沢は城を中心に二重の環濠(かんごう)を巡らせた城塞都市となった。その後、卯辰山山麓と寺町の両寺院群が形成されたが、寛永の2度の大火(1631・1635年)により城下の大半は焼失し、移転・再編が繰り返された。加賀八家など上級家臣に広い土地を与えたため、彼ら家臣が集住した屋敷地が小城下状に随所につくられ、それらが複合して大城下町を形成した。こうして、17世紀後半には都市の骨格ができ上がった。現在も旧街路や町割り、惣構、用水網、広見などが良く残り、江戸・大坂・京都に次ぐ大都市であったことから、近世城下町の都市計画を示す代表例と言える。

豊かな文化遺産群
 文化庁への提案で、「城下町金沢」の資産として挙げられたのは、金沢城、兼六園、それと一体の惣構跡や辰巳用水など34件である。
 金沢城跡には、石川門や三十間長屋など、貴重な江戸後期の国指定重要文化財が残っている。城の石垣は、修復の変遷と構築技術の解明が進んだ結果、「石垣の博物館」とも言われ、戸室石切丁場(いしきりちょうば)から石材が運ばれた。金沢城と百間堀を挟んで位置する特別名勝の兼六園は、5代綱紀(つなのり)が造営した蓮池庭(れんちてい)を起源とし、江戸末期に完成し、現在日本三名園の1つに数えられている。園内を流れる辰巳用水は、約11km離れた犀川上流から、城内へ通水され、近世土木技術水準の高さを示している。
 城下入口には、寺町・小立野・卯辰山山麓の各寺院群が城の三方に配置されている。また、南西に位置する野田山には、加賀藩主前田家墓所と、加賀八家などの家臣団や町人の墓が広がっており、全国屈指の近世墓所である。

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伝統文化

珠姫てまり
珠姫てまり

 金沢の伝統文化を代表するものとして、能楽と茶の湯などがある。当初、能は金春流でしたが、綱紀から宝生流(ほうしょうりゅう)に転じた。藩主が能を愛好したことから藩士にも広まり、町方でも大野湊(おおのみなと)神社や卯辰山観音院の神事能が毎年催され、大野湊神社では現在も継承されている。
 茶の湯は、利家が千利休に師事してから、たしなみとして定着した。利常が裏千家4代千仙叟宗室(せんのせんそうそうしつ)を招き、その指導を受けた楽家弟子長左衛門が大樋焼を開陶した。茶の湯の広まりとともに、季節感豊かな和菓子も発展した。

伝統工芸・産業と匠の技
 金沢の伝統工芸には、漆芸・金工・染織などがあり、伝統産業としては金箔・仏壇などがある。 利常と綱紀は、京都・江戸から白銀師(しろがねし)の後藤両家、蒔絵師の清水久兵衛、五十嵐道甫などの優れた工芸家を招き、美術・工芸に力を入れている。綱紀は「御細工所」を整備し、藩主の武具や身の回り品などの製作・修理をする士分の御細工者を採用し、それを町方職人が補っていた。職種には、武具・小刀細工・漆細工などがあり、後に種類が増加している。この職人の技は、今日「卯辰山工芸工房」により、継承・育成が図られている。
 また、伝統的な匠の技の伝承と人材の育成を目的とした「金沢職人大学校」は、石工・左官・大工などの科目からなり、金沢城菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(つづきやぐら)の復元に大きく役立った。今後、金沢城などの歴史遺産の修復及び伝統技術の継承が、資産の真実性向上に、大きな役割を果たすであろう。

金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化

金沢漆器
金沢漆器

 金沢は、金沢城や惣構、町割り、用水網、広見など城下町発展の各段階を投影した都市構造の骨格を今日までよく継承している。さらに、兼六園などの大名・武家庭園や東山ひがしの茶屋街などの歴史遺産が良好に残る。また、城下町に育まれた能楽や茶の湯などの伝統文化と、「御細工所」の伝統を受け継ぐ加賀象嵌や金沢漆器、金沢箔などの伝統工芸・産業が、現在も市民生活の中に息づいている。特に、旧城下には茶室が多く見られ、庭園、銅鑼、和菓子など茶の湯に関連する文化が一体となって残っている。これらが金沢の起伏に富んだ地形や犀川・浅野川などの自然景観と調和し、たぐいまれな文化的景観を形成している。
 このように、金沢の文化的景観は、金沢城下町の建設に始まり、江戸時代にその基本構造が整えられ、近代以降も新しい要素や流行を取り入れながら変容してきた結果、現在の都市景観の中に歴史的重層性を色濃くとどめるとともに、都市に暮らす人々の精神的・文化的特色を強くあらわしている。

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