「城下町金沢」提案のコンセプト
金沢は、城郭、街路、寺院群、用水網など、城下町にとって重要な文化遺産群が良好に残り、当時の都市計画の考え方がよく分かる。加えて、これらの遺産が伝統文化・技術と一体になり、他の城下町に類を見ない都市の文化的景観を形成している。このことから、金沢は江戸時代の城下町を代表する都市遺産として、顕著な普遍的価値を持っている。
近世城下町の普遍的な価値
日本は、16世紀末から17世紀初頭にかけ、戦乱の世から天下統一へと大きく変化した。この頃、諸大名により200を超す城下町が全国一斉に建設されたことは、世界にも例がない。しかも、城下町は武家権力による日本を代表する独自の都市プランである。
城下町金沢の構造
西田家庭園玉泉園
天正11(1583)年、前田利家が金沢城へ入城してから、以後明治まで加賀・越中・能登3カ国、約120万石を領有した江戸時代最大の大名である前田家の政治・経済・文化の中心としての城下町として約290年間繁栄したことから、日本を代表する近世城下町といえる。
慶長4(1599)年に2代利長は内惣構を、慶長15年(1610)には3代利常が外惣構をつくる。その結果、金沢は城を中心に二重の環濠(かんごう)を巡らせた城塞都市となった。その後、卯辰山山麓と寺町の両寺院群が形成されたが、寛永の2度の大火(1631・1635年)により城下の大半は焼失し、移転・再編が繰り返された。加賀八家など上級家臣に広い土地を与えたため、彼ら家臣が集住した屋敷地が小城下状に随所につくられ、それらが複合して大城下町を形成した。こうして、17世紀後半には都市の骨格ができ上がった。現在も旧街路や町割り、惣構、用水網、広見などが良く残り、江戸・大坂・京都に次ぐ大都市であったことから、近世城下町の都市計画を示す代表例と言える。
豊かな文化遺産群
文化庁への提案で、「城下町金沢」の資産として挙げられたのは、金沢城、兼六園、それと一体の惣構跡や辰巳用水など34件である。
金沢城跡には、石川門や三十間長屋など、貴重な江戸後期の国指定重要文化財が残っている。城の石垣は、修復の変遷と構築技術の解明が進んだ結果、「石垣の博物館」とも言われ、戸室石切丁場(いしきりちょうば)から石材が運ばれた。金沢城と百間堀を挟んで位置する特別名勝の兼六園は、5代綱紀(つなのり)が造営した蓮池庭(れんちてい)を起源とし、江戸末期に完成し、現在日本三名園の1つに数えられている。園内を流れる辰巳用水は、約11km離れた犀川上流から、城内へ通水され、近世土木技術水準の高さを示している。
城下入口には、寺町・小立野・卯辰山山麓の各寺院群が城の三方に配置されている。また、南西に位置する野田山には、加賀藩主前田家墓所と、加賀八家などの家臣団や町人の墓が広がっており、全国屈指の近世墓所である。
金沢城跡には、石川門や三十間長屋など、貴重な江戸後期の国指定重要文化財が残っている。城の石垣は、修復の変遷と構築技術の解明が進んだ結果、「石垣の博物館」とも言われ、戸室石切丁場(いしきりちょうば)から石材が運ばれた。金沢城と百間堀を挟んで位置する特別名勝の兼六園は、5代綱紀(つなのり)が造営した蓮池庭(れんちてい)を起源とし、江戸末期に完成し、現在日本三名園の1つに数えられている。園内を流れる辰巳用水は、約11km離れた犀川上流から、城内へ通水され、近世土木技術水準の高さを示している。
城下入口には、寺町・小立野・卯辰山山麓の各寺院群が城の三方に配置されている。また、南西に位置する野田山には、加賀藩主前田家墓所と、加賀八家などの家臣団や町人の墓が広がっており、全国屈指の近世墓所である。
伝統文化
珠姫てまり
茶の湯は、利家が千利休に師事してから、たしなみとして定着した。利常が裏千家4代千仙叟宗室(せんのせんそうそうしつ)を招き、その指導を受けた楽家弟子長左衛門が大樋焼を開陶した。茶の湯の広まりとともに、季節感豊かな和菓子も発展した。
伝統工芸・産業と匠の技
金沢の伝統工芸には、漆芸・金工・染織などがあり、伝統産業としては金箔・仏壇などがある。
利常と綱紀は、京都・江戸から白銀師(しろがねし)の後藤両家、蒔絵師の清水久兵衛、五十嵐道甫などの優れた工芸家を招き、美術・工芸に力を入れている。綱紀は「御細工所」を整備し、藩主の武具や身の回り品などの製作・修理をする士分の御細工者を採用し、それを町方職人が補っていた。職種には、武具・小刀細工・漆細工などがあり、後に種類が増加している。この職人の技は、今日「卯辰山工芸工房」により、継承・育成が図られている。
また、伝統的な匠の技の伝承と人材の育成を目的とした「金沢職人大学校」は、石工・左官・大工などの科目からなり、金沢城菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(つづきやぐら)の復元に大きく役立った。今後、金沢城などの歴史遺産の修復及び伝統技術の継承が、資産の真実性向上に、大きな役割を果たすであろう。
また、伝統的な匠の技の伝承と人材の育成を目的とした「金沢職人大学校」は、石工・左官・大工などの科目からなり、金沢城菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(つづきやぐら)の復元に大きく役立った。今後、金沢城などの歴史遺産の修復及び伝統技術の継承が、資産の真実性向上に、大きな役割を果たすであろう。
金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化
金沢漆器
このように、金沢の文化的景観は、金沢城下町の建設に始まり、江戸時代にその基本構造が整えられ、近代以降も新しい要素や流行を取り入れながら変容してきた結果、現在の都市景観の中に歴史的重層性を色濃くとどめるとともに、都市に暮らす人々の精神的・文化的特色を強くあらわしている。