土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)
1658(万治元)年、加賀藩が設立した黒色火薬製造工場で、現在の金沢市涌波町周辺にあった。越中五箇山で生産された塩硝を「塩硝の道」と呼ぶ山越えのルートで輸送し、火薬を生産した。史跡指定を目指し、金沢市が発掘など調査中である。敷地面積は幕末時点で11万平方メートル以上と推定されている。黒色火薬は塩硝(硝石)・硫黄・木炭を、7対1・5対1・5の比率で混合することで製造されたといわれ、主に火縄銃などで使用された。材料の中で最も入手が困難なのが日本では天然に産出しない塩硝で、加賀藩では、越中五箇山でしか行われていない培養法と呼ばれる独特の方法によって大量の塩硝を生産しており、その品質は日本一であるとうたわれた。ちなみに硫黄は越中立山の地獄谷で採集されたものを精製して使用していた。
2007(平成19)年度に実施した発掘調査では、土清水塩硝蔵内に建てられていた「硝石御土蔵」の礎石の一部が出土している。また、08(平成20)年度の調査では、硝石御土蔵の面積が特定された。江戸時代の火薬製造工場跡が遺構として発見されたのは全国的にもまれな事例である。