教育と伝統文化・芸能の文化的景観
教育と伝統文化・芸能の文化的景観は、「旧城下町の文化的景観」を特徴づける重要な構成要素の1つである。【茶の湯文化】
3代利常が召抱えた金森方氏(かなもりまさうじ)や千宗室(せんのそうしつ)により、宗和流や裏千家流などが金沢に伝わり、茶の湯は武士階級を中心にしだいに有力町人にも広まった。その結果、茶室が多く作られ、兼六園内の夕顔亭や成巽閣清香軒など前田家ゆかりの大名家の茶室や、西田家庭園灑雪亭(さいせつてい)など武家の茶室が残っている。また、宗室に同道した陶工の長左衛門は大樋焼を焼成し、宗室の指導を受けた鋳物師(いもじ)の宮崎寒雉(かんち)が茶釜を製作するなど、和菓子とともに茶の湯に関する生業がそろった。近代に入り、茶の湯は新たに台頭した商人層を中心に広まったため、今も伝統的な和風住宅内に炉を切る形式がよく見られる。
また、商人層を相手に尾張町周辺には茶道具を商う古美術商が集まり、全国有数の古美術市場を形成した。金沢の茶の湯文化は、今も関連する生業と一体的に残されている。
【武家の庭園群】
藩主前田家ゆかりの大名庭園である兼六園や成巽閣庭園、藩老本多家の松風閣庭園、旧藩士邸宅跡に残る西田家庭園や寺島蔵人邸庭園など、金沢の中心部には今も多くの大名や武家の庭園群が良好に残っている。
これらは、金沢城を中心とする都心部に集中しており、この豊かな庭園文化は豊富に残る近代の伝統的和風住宅にも取り入れられ、他の城下町都市と比較しても遜色のない貴重な緑の歴史的空間を形成している。
【加賀宝生】
加賀藩の能は当初金春流(こんぱるりゅう)だったが、5代将軍徳川綱吉の影響で、5代前田綱紀から宝生流を中心とし、歴代藩主を中心に広く愛好された結果、後に「加賀宝生」とも呼ばれるほど隆盛した。綱紀は、御細工所の職人に能との兼業を命じた結果、「空から謡(うたい)が降る」といわれるほど藩士・町方にも広まった。一方、町方では、大野湊神社の寺中能と卯辰山観音院の観音院能が毎年開催されていたが、現在は寺中能だけが続いている。当時の能舞台そのものはないが、金沢城旧二ノ丸御殿の能舞台が金沢市中村町の中村神社本殿に一部転用されている。また、金沢能楽堂では毎月能楽が開催され、金沢能楽美術館には貴重な能衣装や道具が展示されるなど、今も能楽が愛好されている。
【藩校と近代学校】
江戸後期に藩校明倫堂(めいりんどう)と経武館(けいぶかん)が設けられ、校内には鎮守社(現在の兼六園・金沢神社)が置かれた。その後、藩校は現在の中央公園の地へ移転し、明治に入り藩校跡には、旧制第四高等中学校が建てられ、戦後金沢大学に発展した。現在は大学も移転したが、中央公園として藩政期以来の文教地区の面影を色濃く残している。