./photo/c27.jpg

東山ひがし重要伝統的建造物群保存地区

 1820(文政3)年に茶屋町が設けられ、いったん廃止された後、幕末に再度公認された。伝統的建造物97件を数える。重要伝統的建造物群保存地区。選定面積約1.8ヘクタール。
 地区は金沢城の北東、浅野川の東側に位置し、南北約130メートル、東西約180メートルの範囲で、文政3年、加賀藩の許可を得て、「ひがし」の茶屋町として創設された。地区の形態は、1811(文化8)年と1820(文政3)年の絵図の比較から、公許にともない町割が根本的に改められたことがわかり、通りに接して間口の狭い縦長の敷地割が行われた。
 茶屋全体の外周には囲いが廻っていたと考えられ、地区西側のほぼ中央に表木戸を設けて正面とし、裏木戸を南東の隅に設け、北東隅には天満宮と呼ばれる鎮守社が置かれていた。その後、1831(天保2)年に茶屋町は一旦廃止されていたが、1867(慶応3)年に再び茶屋町として公認され、それ以降は東新地と呼ばれて活況を呈し、希少な茶屋の文化を今日に伝えている。
 地区内の建造物のうち約3分の2が茶屋町創設から明治初期に建設されたものと考えられ、その約9割は茶屋様式の2階建て町家で、1階正面の出格子には細かい割の格子(キムスコ)を備え、2階は座敷を通り側に置くため、正面が高く造られ、表側に縁を通し雨戸を引き通す形式で、金沢の町家の特徴となっている。
 屋根は切妻造平入りの石置の板葺き屋根だったが、現在は屋根を防火構造とするため、桟瓦葺きとするか、金属板葺きとしている。屋根勾配が緩い金属板葺きの屋根は、建設当初の板葺きの勾配を残し、鼻隠板(はなかくしいた)を付けるなど古い形式を現在に残している。
 地区は、江戸後期の茶屋町創設時の敷地割をよく残すとともに、今日では全国でも希少な茶屋の様式の意匠的に優れた建造物が多数残っている。特に、正面の格子の意匠などには茶屋町の繊細かつ華美な様式がみられ、2階正面を高くして軒高をそろえた町家が通りの両側に連続して建ち、茶屋町の特徴ある景観をよく今日に伝えている。

戻る

ページのトップへ