伝統技術の文化的景観
「伝統技術の文化的景観」は「旧城下町金沢の文化的景観」を特徴付ける構成要素の1つである。代表的な生業として石工と箔打ちなどが挙げられる。【戸室石と石工】
金沢城主となった前田利家は、石垣積みの専門職である穴生(あのう)を雇い入れた。1592(文禄元)年の本丸高石垣の築造に際し、金沢城の南東約9キロの戸室山周辺で採掘された「戸室石」が用いられている。戸室石は、青みを帯びた「青戸室」と赤みの強い「赤戸室」があり、採掘跡の戸室石切丁場は現在1300カ所以上が確認されている。現地で加工された石垣の石は、多勢の人足により城内まで運搬され、その石引道のルートも確認され、地名ともなっている。また、江戸後期の穴生方である後藤彦三郎が多くの石垣技術書を書き残し、金沢市玉川図書館に「後藤家文書」として伝わっている。金沢城の石垣は、城の歴史とともに技術的に変遷しながら現在も良好に残り、石切丁場、石引道、技術書など、城郭石垣の調査・研究を行う上で、貴重な資料が総合的に残っている。
穴生の仕事は、石垣以外にも建物の基礎や前田家墓所の様々な石造物が知られている。近代に入り、戸室石は土塀、用水など様々な用途に広く使用され、青戸室と赤戸室を交互に積んだ尾山神社神門石積みに代表されるように、赤と青の色彩美は金沢のまちなみ景観を彩っている。
【金沢箔と和紙】
江戸時代の金箔は、江戸と京都以外では製造が禁止されており、加賀藩も例外ではなかった。しかし、金・銀以外の真鍮(しんちゅう)・錫(すず)・銅箔は製造が許されていたことから、金箔の隠し打ちが密かに行われ、製造されていたといわれている。
1808(文化5)年、金沢城二ノ丸御殿再建に際し、京都から箔職人を呼び寄せて金箔製造を行った。1845(弘化2)年、金沢の町人能登屋佐助は、不正箔取引の取り締まりを名目に幕府から江戸金箔の専売権を獲得し、1856(安政3)年には損じ箔の打ち直しを名目に現在の山の上町に細工場を設けている。この細工場での作業を通じて、金沢箔は規格化や職人の技術向上が図られたといわれている。
明治維新の混乱で箔業は一時衰退するが、1915(大正4)年に金沢の三浦彦太郎が箔打機を開発して金沢箔の生産性を飛躍的に高めた結果、東山町・森山町周辺には箔問屋や職人が多く住み、金沢は日本一の生産を誇るようになった。現在、金箔は多方面に使用されているが、加賀藩の御細工所で育まれた蒔絵・金工・象嵌とともに、「金沢仏壇」にも見ることができる。
金箔を挟んで延ばすための和紙は、主に金沢市二俣町で生産された「二俣和紙」と呼ばれる雁皮紙(がんぴし)が使用されている。原材料の楮(こうぞ)や水が豊富な二俣の紙漉(かみすき)生産は、金箔生産と不可分の生業であり、両者ともに金沢の貴重な伝統技術である。