旧城下町の文化的景観

 【城下町の普遍的価値】
 日本では、16世紀末から17世紀初頭に多くの城下町が全国一斉に建設された。このことは世界史的に見ても類例がない。城下町は、武家権力による独自の都市プランであり、大名領国の政治・経済・文化の中心として重要な機能を果たし、身分別の居住地や防火のために河川・用水・緑地などを巧みに配置しており、都市計画の考え方として現在も普遍的な価値を持つ。
 【都市構造の骨格】
 金沢城は、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地先端を巧みに利用して築かれている。江戸時代最大の大名である前田家の城下町として約290年間繁栄し、日本を代表する城下町である。その空間構造は、加賀八家など有力家臣の屋敷地が小城下状に分散し、複合的な城下町の典型と評価されている。また、骨格をなす金沢城、兼六園、街路、辰巳用水に代表される歴史的用水、寺院群、野田山旧墓地などの文化遺産が今も良好に残り、当時の都市計画の考え方がよくわかる。
 【寺院群と信仰・民俗】
 金沢城の南東には、前田家ゆかりの大寺院が分布する小立野寺院群があり、南西には野田道及び鶴来道沿道に直線的に建ち並ぶ寺町寺院群、北西には曲りくねった道に林立する卯辰山山麓寺院群、北には本願寺東西末寺が配置され、城下町の防衛を兼ねていた。その規模は、他の城下町を圧倒しており、日本の城下町の特色をよく示している。
 また、これら寺院群には、真成寺の産育祈願や、観音院の「四万六千日」参りなどに代表される、近世以来の様々な信仰・民俗が今も息づいている。
 【野田山旧墓地と墓守】
 野田山旧墓地は、加賀藩主前田家墓所を頂点とし、加賀八家に代表される重臣墓所や藩士墓、さらには町人墓などからなる、数万基の一大近世墓地で、全国的にも珍しい墓地形態である。墓の管理は、昔から地元に住む墓守(はかもり)と呼ばれる人々が代々請け負っており、お盆には読経とキリコと呼ばれる灯りが数多くともされ、金沢の夏の風物詩となっている。
 こうした文化遺産が、伝統の文化や、たぐいまれな伝統技術と一体になり、現在の都市景観の中で他の城下町に見られない独自の風景を形成し、城下町の文化的景観を作っている。

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