戸室石切丁場(とむろいしきりちょうば)
金沢城の南東約12キロに位置する戸室山周辺に散在する金沢城石垣の採石場所。採掘跡が約660ヘクタールにわたって分布し、採石坑は1300カ所以上確認されている。史跡指定をめざし、石川県が調査中である。金沢城の石垣づくりは、築城まもなく開始され、寛永年間(1624〜1644年)に完成するが、その後も災害復旧・施設整備などを目的に改修が行われ、それが「石垣の博物館」と称されるように多様な石垣技術を発展させた要因となった。
石垣の石材のほとんどは戸室石で築かれている。戸室石は、医王山の手前にある戸室山(標高548メートル)・キゴ山周辺から産出する角閃石安山岩の通称で、その色調から青戸室・赤戸室の二種類に分類されている。両山は約45万年前以降の火山活動で噴火した火山で、その際に噴出した溶岩からできた岩石が戸室石と呼ばれている。
金沢城調査研究所は2003(平成15)年度から戸室石切丁場跡の総合調査を開始した。採掘坑跡は東西3・5キロメートル・南北3キロメートルの範囲内に分布し、江戸後期になると、戸室北麓へ集約したことが分かった。戸室石は金沢城の築城に伴い開発された石材で、藩政時代を通じて民間採掘が制限され、原則として藩外への持ち出しは禁止されていた。
石切丁場で採掘された石材は、現地で加工された後、約12キロ離れた城内の普請場までを運搬専用道として整備された石引道(いしびきみち)を通って運ばれた。石を運ぶ作業は重労働で、多くの人員動員により石材を肩で担いだり、修羅(しゆら)で引いたり、地(じぐるま)で運んだ様子が具体的に分かっている。
金沢城跡には多様な石垣が残るだけでなく、石切丁場や石引の実態、さらに穴生衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工が記した石垣技術史料(後藤家文書)が残るなど、総合的に石垣づくりが研究できる点で全国の注目を集めている。
なお、戸室石は金沢城だけでなく城下町の各所で見ることができる。神社仏閣では建物の土台石・鳥居・手水鉢・燈籠など、武家屋敷では土塀基礎石があり、ほかに橋梁本体や欄干、用水石垣などにも利用され、藩政期のまちなみに独特の色彩を添えている。