金沢城惣構跡(そうがまえあと)
初期の金沢城下を堀と、城側に土を盛り上げた土居(どい 土塁)で二重に囲んだ防衛施設。1599(慶長4)年に内惣構、1610(同15)年に外惣構が構築された。市指定史跡、3万3千平方メートル。内惣構は、徳川氏との緊張関係が高まったことを受け、2代利長の客将高山右近の指揮で造られ、外惣構は三代利常の家臣篠原一孝(しのはらかつたか)の指揮で構築されたと伝えられる。内惣構は延長約2・9キロ、外惣構は約4・2キロあり、それぞれ金沢城を挟んで東西に分かれており、河岸段丘崖を利用して等高線を縫うように走っている。
土居は兼六園の山崎山や、尾山神社庭園の築山などに一部残るほかはほぼ消滅してしまったが、堀の大部分は幅を縮小しながらも現在も水が流れており、貴重な歴史的用水として利用されている。また、惣構の内外には道路が並行して走ることが多く、これにより、かつての惣構の規模を知ることができる。
惣構の管理には、惣構肝煎(きもいり)や惣構橋番人などの町役人を配置し、堀にゴミを捨てること、土居を崩すこと、土居の竹木を伐採することなどを禁じていた。特に北国街道との接点である下口の枯木橋、上口の香林坊橋、並びに外港の宮腰(みやのこし 現在の金石)へ向う街道との接点にある升形は城下の重要拠点だった。また土居は、防火帯としての役割も果たしており、1759(宝暦9)年の大火では惣構に沿って焼け残った武家屋敷などが記録されています。
金沢市は2005(平成17)年度から惣構跡の発掘調査を実施し、これまでに西外惣構跡武蔵町地点と升形地点、東内惣構跡枯木橋詰遺構、を調査し、堀および土居の規模や構造の変遷、周辺の旧植生などを明らかにした。
また、2008(平成20)年度には東内惣構跡枯木橋詰遺構において、堀が段階的に埋められた過程を石垣で表して惣構景観の復元を行い、見学できる場として公開した。2009年度も西内惣構跡主計町地点の復元整備を実施した。