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辰巳用水

 1632(寛永9)年、3代利常が小松の町人板屋兵四郎に命じ、金沢城への導水ために開削させたと言われている。2010(平成22)年2月、国史跡に指定された。対象は犀川・東岩取水口(金沢市上辰巳町)から兼六園までの延長11キロのうち、暗渠や流路が変更されている部分を除く約8・7キロ。全長260メートルの三段石垣も対象に含まれ、面積は約14万7000平方メートルとなる。
 江戸時代に開削された全国の都市用水で、辰巳用水のように飲料を目的としなかった用水は珍しく、土木技術史の観点からも貴重な史料として位置づけられる。高低差で生じた水圧を利用して水を流す「逆サイホン方式」をはじめ、いくつもの横穴から両側に掘り進んでつなげた隧道、緩やかな勾配などは当時の高い土木技術を物語っている。
 辰巳用水は、城の辰巳(東南)にあたる犀川上流部に水源を求めたことがその名の由来と言われている。当初、取水口は城から約10・5キロ離れた上辰巳町雉(きじ)に設けられたが、その後約130メートル上流のめおと滝対岸に付け替えられ、1855(安政2)年には取水量を増やす目的でさらに約600メートル上流の、現在の東岩へと移された。
 現在、上流部約4・7キロは岩盤をくり貫いた隧道となっている。隧道は断面馬蹄形で高さ幅ともに約1間(約1・8メートル)で、約20〜30メートルおきに犀川に面した崖面に向けて横穴が開けられており、これにより工区の細分化・工期の短縮を図ったとされている。隧道内の壁面には灯明を置いた窪み穴(タンコロ穴)が掘られている。
 城内への導水には標高の低い百間堀の土手を通過するために、「伏越(ふせこし)の理(ことわり)」(逆サイホンの原理)を利用して金沢城石川門前土橋に木樋(もくひ)を埋設した。石川門前土橋の発掘調査では、兼六園と金沢城をつなぐ土手の中から、当初埋設された木樋の他、1843(天保14)年から行われた改修で埋設された越中金屋石製の石管が見つかった。
 この用水が建設された目的は、金沢城の防火および城内の水堀化による防御力の強化といわれているが、以後沿線の新田開発が進み、のちには土清水塩硝蔵(つっちょうずえんしょうぐら)などで火薬製造の際の水車の動力源としても活用された。現在も兼六園の園池を満たす水源として重要な役割を果たしている。
 沿線には辰巳用水が流れる崖面を保護する延長約260メートル、高さ約2・5〜7メートルの三段石垣や、発掘調査で確認された開渠用水の旧路などの遺構も残っており、構築以来現在まで絶え間なく管理・利用されてきた貴重な歴史的用水であることを物語っている。

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