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金沢城跡

 1583(天正11)年、前田利家が城主となって以来、明治まで前田家14代の居城。国指定跡、面積約28ヘクタール。
 城下町金沢の中心にあり、加賀藩の政治・文化・経済において中心的役割を果たしてきた金沢城は、犀川・浅野川に挟まれた小立野丘陵先端に位置する平山城(ひらやまじろ)。東西約500メートル・南北約760メートル、規模は百万石の石高の割に大きくはない。1580(天正8)年、織田方の佐久間盛政が、1546(天文15)年、本願寺末寺として設置した一向一揆の拠点・金沢御堂を攻略し、近世城郭に造り替えた。その3年後には初代前田利家が入城し、明治の廃藩置県まで、およそ290年間に渡って前田家の居城となった。前田家のように織田・豊臣政権の下で取り立てられた大名が徳川政権下でも引き続き同じ城の城主であり続けた国持ち大名の事例は数少ないとされている。
 初代前田利家は1587(天正15)年、戸室石を城石垣として最初に使った高石垣を本丸東面に築いた。しかし、天守は1602(慶長7)年の落雷により焼失し、代わりに三階櫓(やぐら)を再建したが、1759(宝暦9)年の宝暦大火により再び焼失した。
 城下町においては、2代利長は客将・高山右近に指揮させて内惣構を、3代利常は家臣・篠原一孝に命じて外惣構をそれぞれ構築し、城の防御態勢を整えた。城内には本丸・二ノ丸や御殿、河北門や尾坂門などの門、宮守堀(いもりぼり)、大手堀などの堀が造られたが、金沢城の地形や郭など現在目にする姿は1631(寛永8)年の大火直後に造成されたものと考えられている。
 1871(明治4)年、廃藩により金沢城は明治新政府に収用され、翌年、兵部省の管轄となり、名古屋鎮台分営が置かれた。城内の施設は兵舎に転用され、一部は取り壊され、1881(明治14)年の二ノ丸火災により二ノ丸御殿が焼失した。また、北ノ丸にあった金沢東照宮は尾崎神社と改称された後、1878(明治11)年に現在地へ移転した。
 1945(昭和20)年、敗戦により旧陸軍は解体され、同時に金沢城跡に置かれた軍用施設は占領軍の支配下に置かれた。1949(昭和24)年、金沢城は新学制による金沢大学のキャンパスとなり、「軍都」から「学都」のシンボルへと変わった。
 1996(平成8)年、金沢大学が金沢市郊外の角間地区へ移転したのを機に城地は石川県に移管された。その後、石川県は金沢城公園の活用を目的に2001(平成13)年に菱櫓・五十間長屋などの建物を復元・公開し、2010(平成22)年春には、石川門や橋爪門とともに金沢城三御門の一つである河北門の復元が成った。
 また、2001(平成13)年から金沢城研究調査室(現・金沢城調査研究所)が金沢城の総合的な調査研究事業を展開。2008(平成20)年には金沢城跡が国指定史跡に、金沢城土蔵(鶴丸倉庫)は、石川門、三十間長屋に次いで城内で3件目の国の重要文化財(建造物)に指定された。

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